身のまわりにある小さな幸せ
自己紹介のときに少し書いたのですが、私は不妊治療を経験しています。
私にも夫にもそれぞれ不妊の要因があり、最終的に体外受精(顕微授精)まで治療をして、やっとの思いで授かることができました。
もしかしたら自分たちのところに赤ちゃんは来てくれないかもしれない…
今思い出すだけでもつらい時期がありました。
そんな頃、小川糸さんの『ミ・ト・ン』を読んで、少し心が軽くなったときがありました。
『ミ・ト・ン』は、編み物や木工芸といった民芸品で有名なラトビアを舞台にした小説で、マリカというひとりの女性の一生を描いた物語です。
作品の中では、ルップマイゼ共和国に住むマリカのお話ですが、ラトビアの歴史や人々の暮らしがもとになっています。自然に囲まれた、手づくりのある暮らし、編み物や民芸品といった内容に興味のある方にとっても、心に響く1冊になるかと思います。
大家族に生まれたマリカはとても天真爛漫で、やさしい性格。
ある日、マリカのおとうさんが森に落ちていたクルミを見て、兄弟3人にクイズをだしました。
「この1つぶのクルミを、みんなが納得するように分けるにはどうしたらいい?」
兄弟たちが一生けん命考えて平等に分ける、年齢の順に分ける、など知恵をだしあう中、マリカは
「土にうめる!」
と答えます。
大切に育てれば、いつかクルミの木がはえてみんなが食べられるようになるから、と言うのです。
そんなやさしい心をもったマリカも成長して、心から信頼して一生をともにできるパートナー、ヤーニスと出会い、2人は結婚します。
ふたりは力をあわせて働き、自分たちの暮らす家を建て、夏は湖に泳ぎにいったり、湖畔で詩を書いたりして過ごします。仲睦まじいふたりの家の庭にはコウノトリが訪れるようになりました。
でも、何年まってもなかなかふたりのもとに赤ちゃんは来てくれません。
あるとき、ヤーニスはマリカとゆっくり話をする時間をもち、こう言います。
「幸せを運んできてくれるコウノトリが、ぼくたちの子どもであり、家族なんじゃないかな」と。
マリカもヤーニスも、心から自分たちの子どもを望んでいました。
しかし、子どもを授からなかったからこそ見つけることのできた幸せも、ふたりにはたくさんありました。
自分たちには自分たちのもっている幸せがある、ということに気づいたのです。
物語はそこからまだまだ続いていくのですが、長く不妊に悩んでいた私たちには深く共感できるとともに、希望を感じさせてくれた小説でした。
もちろんこれは人にもよりますが、不妊治療が長くなると、徐々に子どものいる未来を目標にして、それを楽しみにしながら病院へ通う、妊活を続けることが辛くなることがあります。治療がうまくいかなかったとき、落ち込むことが分かっているからです。
子どもがほしい。
でもそんな幸せな未来を想像すると余計にだめだったときに落ち込むから、そんな想像はしたくない。
矛盾した気持ちを抱えながら日々を過ごすことに、心も体も疲れ果てていました。
そんなとき、『ミ・ト・ン』を読んで、少し胸のつかえがとれた気がしたのです。
赤ちゃんがきてくれるのはもちろん幸せ。
でも治療を続けて、もしうまくいってもいかなくても、自分たちのいまもっている幸せを大切にしていこう。
そんな気持ちにふたりともがなることができたのです。
そうして少しずつ縫いはじめたのが、冒頭にのっているコウノトリの刺繍です。
いつか赤ちゃんがきてくれますように。
希望をもって生きていくことができますように。
そう願いを込めてひたすら縫いました。
妊娠がわかってからは、無事に元気に育ちますように、と願いをこめて。
できあがった刺繍はオーナメントにして、今も家のよく見えるところに飾ってあります。
私にとっては、たくさんの思いがつまった、宝物のようなオーナメントです。
今振り返ると、もくもくと針と糸に集中する時間があったからこそ、つらい時を乗り越えることができました。
最近では、編み物もはじめたので、『ミ・ト・ン』に出てきたような棒針の編み物もいつか編んでみたいな、と思っています。
ちょっと心がつかれたときは刺繍や編み物をするとすーっと気持ちが落ち着きます。
手を動かす元気もないときは、がんばってつくったものたちを眺めたり、ほっとする物語を読んでみたり、家族とお茶をしたり。
そんな毎日の何気ない日常の中に、小さな幸せがあふれているのかもしれません。